アンコールクッキーから農業に転身した『マダムサチコ』の カンボジア日記

カンボジア、世界遺産アンコールワットのある町シェムリアップで、カンボジアの女性たちの雇用の場を作ろうという想いから、2004年にお土産物屋『アンコールクッキー』を創業。12年間にわたり社長として事業を牽引し年商3億円の事業に発展させる。2016年にアンコールクッキー社の体制を変更し、新経営陣に運営を託し、新たな夢へ挑戦中。アンコールクッキーの原材料をカンボジア国内に追い求める中でたくさんの農家の人たちと出逢い、カンボジアの農業がなぜ魅力的な産業になれないのか、なぜ私たちの食を支えてくれている農家の人たちが選択肢のない貧しい生活を強いられるのか、カンボジアの主産業である農業をもうかる産業にできないのかという想いがわいてきて、40ヘクタールの農園をシェムリアップ近郊に所有し、農業の6次化によって出稼ぎにでなくても生まれ育った村で家族と共に暮らせる幸せを実現できる村づくりを目指して奮闘中。シェムリアップ暮らしも早18年目。すっかりカンボジア感覚になっている日本人の目線で、カンボジアからフレッシュな情報とカンボジアの日常をつづるブログ。

2008年01月

おめでた続き

去年の7月に工房スタッフのリーダーのイアムが男の子を出産。

つづいて10月にショップスタッフのアーカーが男の子を出産。

もうすぐ赤ちゃんが生まれるお腹の大きいスタッフが工房に1人、ショップに2人。
出産ラッシュの続く、おめでたいアンコールクッキーです。

スタッフに『お姉さん、出産でスタッフがどんどん休暇に入るから大変ですね』と同情?心配?される。
『赤ちゃんが生まれる、新しい命が生まれることはとっても素晴らしいことだからお店にとっても幸せなことだよ〜』と言いながら、確かに嬉しいことだけど、わが社のスタッフは50名が女性。しかもみんなお年頃。結婚ラッシュ。
そうなると、今年来年はお店中が妊婦だったりして?!とちょっとその光景を想像しておかしくなる。



AKAと赤ちゃん


2004年から一緒に働いているアーカーが10月7日に生まれたヴィリャッを連れて遊びに来ました。
幼い顔をしてコンポンチャムからやってきたアーカーがもうお母さんなんだなぁとなんだか感慨にふける。







私は結婚も出産も育児も経験していない、主婦の大変さや赤ちゃんを育てる大変さを知らない社長です。
でも、結婚しても、子供を産んでも、女性が働きやすい職場、働き続けられる職場を作りたいと常々思っています。
だからこそ彼らの意見をどんどん聞いて、これから会社として何をすべきか、考えていき、会社のシステムを作っていかねばと思うのです。
何より、自分が結婚、出産、育児を経験するのが一番なのですが・・・・。それがスタッフの気持ちを理解できる一番の近道とは分かっていてもなかなか実現できないのが現実なのです。ふ〜・・・・・。今年こそ(笑)?!




寒い時にはやっぱり鍋

最近のシェムリアップは寒い。
といっても、朝晩は20度くらい。
日本はマイナス何度・・なんていう気候らしいので寒いなんていってると怒られてしまいそうですね。
でも暑さに慣れた体には20度でも寒く感じます。

そんな寒い夜にはやっぱり鍋!!
カンボジアのお鍋『スップ チュナンダイ』。
牛だしのスープが結構美味しい。

チュナンダイチュナンダイ2


普段はあまり『バーストリート』へ繰り出すことがないのですが、年が明けてからもう3回もバーストリートでお鍋を食べています。寒い時にはやっぱりお鍋がいいですね。

解放記念日

1月7日は虐殺政権(ポルポト政権)からの解放記念日です。

1975年4月17日〜1979年1月6日まで続いた『ポルポト時代』が終結した日。
この3年8ヶ月20日間の間に100万人、200万人もの人が亡くなったといわれています。

シアヌーク前国王の強いリーダーシップの元、1953年にフランス植民地からの完全独立を果たしたカンボジア。1960年代は『東洋のパリ』と称されるほど首都のプノンペンは美しい町だったそうです。
そのカンボジアが何故内戦へ突入していったのか・・・・。

この頃、隣国ベトナムではベトナム戦争が激化していたのですが、シアヌーク国王は一貫して解放戦線を指示し、カンボジア領(ホーチミンルート)を利用して南ベトナムを攻撃することを黙認しました。つまり反米外交姿勢をとっていたわけです。反米、親中体制をとっていたことが親米派の反感をかい、1970年3月、シアヌークがモスクワへの外遊中にアメリカのの支援を受けた『ロンノル将軍』がクーデターを起こし、親米政権『クメール共和国』が誕生しました。

中国に亡命し、周恩来首相の下に身を寄せたたシアヌークは、北京にてクメールルージュとともに亡命政府『カンプチア民族統一戦線』を樹立。中国からの支援を受けるようになったわけです。

一方アメリカ政府の支援を受けたロンノル政権はアメリカからの膨大な援助により、政府内部の汚職、役人の腐敗が広がっていったが、アメリカのインドシナ経済状況は悪化し、国民感情は悪化していきました。ロンノル政権の腐敗に反感を持っていた国民は1945年4月クメールルージュが首都プノンペンを陥落したときは大歓迎で迎えたそうです。

1945年4月17日午後、クメールルージュは首都プノンペンのすべての市民にプノンペンからの強制撤去を命じました。
4月といえば、カンボジア正月の頃。しかも1年で1番暑い季節の中、プノンペン市民は理由も分からず、着の身着のまま農村部へ追い立てられたのです。これがポルポト時代の始まりです。
この日から3年8ヶ月の虐殺政権が始まったのです。
ロンノル政府軍はもちろん知識人は処刑され、地方では強制労働が行われ、貨幣や市場による経済活動、宗教や学校教育など今までの社会制度はすべて禁止された。ポルポト時代は、中国の文化大革命に倣い、資本主義社会を否定し、極端な共産主義社会を建設しようとしていた。

ポルポト政権は内部抗争により徐々に力を失い、1979年1月7日、ベトナムの支援を受け、ヘン・サムリン、チア・シム、フン・センらがプノンペンに入り、『カンボジア人民共和国』を樹立、クメールルージュはタイの国境へと逃げました。
こうやって3年8ヶ月20日のポルポト時代は終焉を迎えたのです。

今朝の朝礼でスタッフに『1月7日。今日は何の日?』と問いかけると、全員が大きな声で即座に『解放記念日』と答えました。
『何年前?』という質問にもすぐに『29年前』という答えがでました。
まだ29年?、それとも、もう29年たったのでしょうか。どちらとしても、カンボジアの人達の心に残った傷ははかりしれません。

『29年前、カンボジアの人達は食べることもままならず、明日まで生き延びられるか、それだけを考えて生きていたでしょう。今はみんなご飯がたくさん食べられて、仕事もあって、お金も稼げて、楽しいこともたくさん経験できる。いい時代になったよね。私はこれからもカンボジアがずーーーーっと平和で幸せであるように願います』

今日の朝礼はこの言葉で締めくくりました。
朝礼の後、オフィスで仕事をしていたら、スタッフがやってきて
『私はお姉さんがカンボジアのことを色々知ってくれていることが嬉しい。カンボジアについてたくさん勉強してくれていてありがとう』と言ってくれた。
カンボジアに住み、カンボジアで働く以上、カンボジアの文化や歴史、カンボジアの人達の習慣など、この国についてもっともっと勉強しなくてはいけないなぁと思いました。

カンボジアの平和がずっと続き、笑顔の素敵なカンボジアの人達がずっと幸せでありますようにと心から思った1日でした。

道ばたでの出会い

年末年始、シェムリアップはものすごいたくさんの観光客で町が溢れ返っています。。。たくさんの方がカンボジアに来てくれるのはとっても嬉しいことですが、もともと狭い道ですから町は大渋滞、交通ルールがめちゃくちゃですから交通事故が起き・・・みなさん、もう少し安全運転で『どうぞお先に』くらいの気持ちで車を運転しましょう。

そんな町の喧騒からちょっと離れて郊外へ。。。
仕事の忙しさも一時だけ忘れ、電気もない、水道もない、自然の溢れた田舎の景色を見て心の洗濯。

道ばたで出逢ったおちゃめな水牛。

『な〜に、あたしの写真を撮ってんの?ウゴォ〜』

水牛1水牛2水牛3








こんな呑気な顔を見てるとちっちゃなことはどうでもいいや〜って思えてくるから不思議。これがカンボジアの魅力なんだよなぁ・・・・・・・。
(呑気な顔じゃなくて、これが水牛の真顔なんでしょうけど)

水牛4

おせち@カンボジア

観光地であるシェムリアップにいるとお正月の気分に浸っている暇はなく連日働いています。通常より働いています。
初めてカンボジアに来たのが26才の時。年女の私は今年で36歳に。つまりかれこれ10年もカンボジアでお正月を過ごしていることになります。

この3が日、シェムリアップでおせちをいただきました。
日本にいた時、おせちもお雑煮もそれほど食べなかったのですが、お正月ムードが全くないところにいるとなんだか妙に懐かしく、おせちをいただいている時間、仕事も忘れ『あぁ、新しい年を迎えたんだなぁ』としみじみ感じてしまいました。

材料の手に入りにくいこのシェムリアップの地で、おせち料理をいただけるのも、日本食屋さんのおかげ。美味しく堪能させていただきました。


おせち1おせち2


また来年のお正月も宜しくおねがいします!!

新年第1日目

新年明けましておめでとうございます。
皆様の温かいご支援ご協力のおかげで新しい年を無事迎えることができましたこと心よりお礼申し上げます。
2008年も初心忘れず、感謝の気持ちを忘れず、しっかりと一歩一歩進んで行きたいと思います。
今年もアンコールクッキーをどうぞ宜しくお願い致します。

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2008年が始まりました。新しい年、第一日目、それだけで気持ちが引き締まり気合が入る。
毎朝行われる朝礼も新鮮な空気が流れ、いい雰囲気で第1日目のスタートを切りました。


今日の朝礼の一幕。

マネージャーが今日の連絡事項を伝えてから、その後、各スタッフが皆に連絡しておきたいことや、問題点、改善点、気をつけるべきことなど、気づいたことがあれば発言するというのがいつも朝礼のパターン。

カフェ店長深井からの連絡事項が終わり、私からの新年の挨拶が終わった後、オフィススタッフのラタナが一歩前へ進み、スタッフみんなに語り始めた。

『今日からショップマネージャだった雅代さんがいません。雅代さんがいなくなってしまったけれども、これからはスタッフみんなが一層協力し合って仕事をしていかなくていはいけない。新しい日本人マネージャーの佳織さんを助けて、みんなでお店をよくするよう頑張ろう。』

ラタナは22歳。うちのお店で働き始めたのは2005年4月、19歳の時でした。がりがりにやせていて、言葉がしゃべれないんじゃないかというくらい何もしゃべらず、暗い顔をして下を向いていたのを今でも覚えている。
うちで働いていたスタッフの従弟で、コンポンチャムという町から出てきて、彼の家に居候していた。
全然しゃべらないし、暗いし、大丈夫かな〜?とは思ったけれど、うちで働いていたスタッフの従弟だったこともあり、店舗を移転するのに人手が欲しかった事もあり、採用することにした。
新店舗の工事現場でもくもくとペンキ塗りをしていたラタナ。今のお店の窓枠をペンキで全部白く塗ったのはラタナだったなぁ。
毎日シャツを真っ白にしながら何もしゃべらず、でも怠けもせず、一人もくもくと働いていた。

そのラタナが1年目にちょっとした問題を起こした。ラタナから『仕事を辞めたい』と言ってきた。自分自身、悪いことをしたのは分かっているからもう恥ずかしくてここで働けないと。田舎に帰って村で働くと。

私は彼を辞めさせなかった。
辞めてすべてが終わり、解決ではなく、償いになるのではなく、恥ずかしいことをしたと思うなら、もっともっと頑張って頑張ることによって私にその気持ちを伝えてほしい、そう思った。
彼を辞めさせたくなかった。頑張ってる彼の姿を知っていたし、めきめき成長している彼を見てきたから、もっともっと彼の成長をそばで見たかった。もっともっと彼に色々なことを教えたかった。仕事をする喜び、面白さ、頑張って得るものの大きさ、簡単に諦めない強い気持ち、いっぱいいっぱい彼には伝えたいことがあった。

あれから1年半。何もしゃべれなかった大人しい青年が今はカンボジアスタッフの中でも1,2を争うほどの頼れる奴になった。
自分の意見をしっかり持って、自ら発言できるオトコになった。

ラタナのスピーチが終わった後、『ラタナ〜、めちゃくちゃかっこいいなぁ』と冗談まじりでからかったけど、本当は抱きしめたくなるほど嬉しかったよ。

お店のことを考えていつも行動してくれて、言いたくないこともちゃんと皆に言ってくれて本当にありがとう。

今年はもっとビシビシ鍛えるから覚悟してろよ〜!!!とさらなる成長を願い、鬼社長は思うのでした。

素晴らしい新年のスタート、今年も頑張ります!!

ラタナ
プロフィール

マダムサチコ

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